『ウエストミンスター小教理問答 第37問』

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『ウエストミンスター小教理問答 第37問』

『ウエストミンスター小教理問答 第37問』 2013年8月18日

問37 信者は、死の時、キリストからどんな祝福を受けますか。

答  信者の霊魂は、死の時、まったくきよくされ、直ちに栄光に入ります。信者の体は、依然としてキリストに結びつけられたまま、復活まで墓の中で休みます。


 死の意味が変わった

 死はわざわいであることをやめました。人の思いとして、死を恐れることは避けられません。しかし、キリストをほんとうに信じるなら、死を恐れ続ける必要はなくなりました。あるいは、人の思いとして、死に背を向けて無視し続けることもあるでしょう。しかし、私たちにとって死は思いがけないものではありません。キリストの祝福の下にあります。


 眠りについた


 聖書は、しばしば死について「眠りについた」と表現します。(創世記47:30、列王上2:10、使徒7:60)しかし、これは彼らの霊魂が無意識の状態に陥ったという意味ではありません。「眠りについた」とは、安らかな休息を意味しています。

「今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである。・・・然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」(黙示録14:13)

キリストが死に支配されたままでいることがあり得なかったように(使徒2:24)、キリストに結ばれて死んだ人々も死に支配されたままでいることはあり得ないのです。

「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」(第一テサロニケ4:14)


人生の通過点


 主を信じる喜びに生きる人々にとって、死は恐ろしいものではなく、人生の重要な通過点です。また、キリストとの交わりから言うならば、この世の生よりもいっそう望ましいものでした。

「・・・(信仰によって歩む)わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。・・・そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます。」(第二コリント5:6、8)

「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。・・・この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。」(フィリピ1:21、23)