『なぜ、祈りが必要なのか』

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『なぜ、祈りが必要なのか』 (カルヴァン「キリスト教綱要」第3編20章1節)

○すでに論じられたことからはっきりと洞察されるのは、いかに人間が徹底して善を欠いて空しいものであるか、いかに徹底して救いの手段を失っているかということである。

○そこで、(そのような)自己の窮乏から助け出してくれる手段を求めるならば、自分自身の外に出て他のところからこれを得なければならない。

○主はキリストにおいて御自身を進んで寛大に差し出し、彼において我々の悲惨の代わりにすべての幸いを、また我々の乏しさの代わりに豊かさを与え、彼において天の宝を我々に開放したもうた・・・。

○およそ我々に必要なもの、我々の内に欠けているものは、ことごとく神と我々の主イエス・キリストの内に置かれている。我々が(さかんにあふれている泉から水を得るように)そこからすべてを得るように、御父は御子の内に御自身の満ち満ちた豊かさのすべてを宿らせたもうた・・・。

○そこで、その後なすべきことは、御父の内にあると教えられたものを・・・祈りによって請い求めることである。(そのようにしない人は)ちょうど地中に宝が埋められていると知らされながらも、それを無視している人のようなものであろう。