使徒信条(キリスト教信仰の要約)

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『祈りの生活』

『祈りの生活』

「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯。」

                        (詩編119:105)



 「わたしの道の光」は、ずっと先まで照らし出す強い光ではありません。
わたしの足元を「照らす灯」です。一気に私たちの苦しみや悩みを解決して、闇を追い払ってしまうには、この光では足りません。しかし、今日、歩みを進めるためには十分です。このような光によって歩むことを学びたいと思います。試練を喜ぶためには、そのような光を聖書に求めなければなりません。

 聖書に、一気に私たちの苦しみや悩みを解決する光を求めたなら、おそらく失望せざるをえないでしょう。聖書に、そのような光がないという意味ではありません。それは確かにあります。死に打ち勝つ復活、悪に打ち勝つ神の裁き、すべてを支配なしたもう神の摂理・・・など。聖書には神の栄光を示す強烈な光が満ちています。しかし、試練の日には、それらの光は雲に覆われた太陽の光のように思われます。雲の下は暗いのです。そして、その薄暗がりを歩むには、やはり「わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯」が必要です。そのような「道の光」「歩みを照らす灯」に従って歩んでいったときに、高い所に導かれて、太陽を仰ぐこともあるでしょう。しかし、私たちは、いつも高い所にだけいるわけではありません。


 試練を試練として喜ぶ生活を送りたいと願います。
「道の光」「歩みを照らす灯」を求めるなら、日々、必ず生きた信仰が与えられます。
そのような光の中で歩みながら祈るなら、その信仰は試されるでしょうが、その信仰は祈りと共に前進するでしょう。祈った祈りが日ごとに聞かれていることをも経験するでしょう。

 「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。」(ヤコブ1:5-6)

 祈ったすべての祈りが、すぐに聞かれることはなくても、「道の光」「歩みを照らす灯」を求める祈りは、日々必ず聞かれます。そして、その中で私たちは、主にあって変えられていきます。それと共に、いろいろなことも変わっていくでしょう。キリスト者として心を定めて、安定した生き方をするためには、そのような祈りの生活が何としても必要です。(ヤコブ1:8)