『すべての聖なる者たちのために』

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『すべての聖なる者たちのために』  新年祈祷会・2010年1月1日

「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」(エフェソ6:18)

 教会は霊的な戦いの中に置かれています。それゆえ、パウロはこう勧めます。

「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」(エフェソ6:11)

では、悪魔はどのような策略を用いるのでしょうか。キリストへの誘惑が、その策略の中身をよく示しています。悪魔はキリストを誘惑して言います。

「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」(マタイ4:3)
「神の子なら、飛び降りたらどうだ。」(マタイ4:6)

神の子の力をことごとく自分のために用いたならどうだ、と誘惑しているのです。もっと平たく言えば、キリストにその優れた力を用いて自分のために生きたらどうだ、と勧めています。悪魔の誘惑という先入観を持たずにこのやり取りを見るなら、これは当然の助言と言ってよいかもしれません。このもっともらしさが「悪魔の策略」です。しかし、キリストが御言葉によって悪魔の誘惑を斥けてくださったので、自分のために生きる人生に真の希望がないことが鮮やかに示されました。悪魔は、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて言います。

「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」(マタイ4:9)

むなしい約束です。御自分を無にして、十字架の死に至るまで父なる神に従順であられたキリストに、悪魔の誘惑は通用しませんでした。

「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。」(ルカ9:25)


 キリストによって与えていただいた新しい命は、自分のために生きる命ではありません。「悪魔の策略」があまりにもっともらしいので、わたしたちも迷わされ続けるかもしれませんが、キリストの教えは明瞭です。

「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(ルカ9:23)

新しい命は、それにふさわしい仕方で生きられなければなりません。
まず「自分を捨て」、日々
「すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続ける」
ことから始めましょう。それこそ、日々、キリスト者なら誰でも背負うことのできる自分の十字架です。それゆえ、最も基本的な十字架です。キリストは定められた時に、定められた十字架で死ぬために地上に来られました。同様に、キリストに従う者も定められた時に、定められた仕方で死ぬでしょう。その死を背負って、その死にふさわしく進んで行かなければなりません。