「絶えず祈りなさい」

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「絶えず祈りなさい」  新年祈祷会・2009年1月1日

「絶えず祈りなさい」第1テサロニケ5:17
 

 これは、「絶え間なく、ひっきりなしに祈りなさい」ということです。もっと具体的に言えば、「人に語るよりも先に主に語れ、人に要求せず主に求めよ、人の良し悪しを言わず主に訴えよ」です。「民よ、どのような時にも神に信頼し、御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。」(詩編62:9)ここに、絶えず祈る人がいます。
 
 「・・・誰も奪い返し、助けてくれないのです。」(詩編7:3)こんなことを安易に人に語ったなら、泣き言、不平、不満になってしまうでしょう。しかし、神に対して語る時、それは祈りとなります。
 「・・・敵はわたしを苦しめようとして言います。『早く死んでその名も消えうせるがよい。』見舞いに来れば、むなしいことを言いますが、心に悪意を満たし、外に出ればそれを口にします。」(詩編41:6-7)これもまた、安易に人に語ったなら、ただの悪口になってしまいます。しかし、これもまた祈りです。
 
 また、状況が厳しければ厳しいほど、人に対する私たちの要求は過大なものになりがちです。そして、要求する人もされる人もお互いに苦しくなってしまうでしょう。しかし、絶えず祈る人々は人に対して安易な期待もせず、怒りもせず失望もしません。人に求めず、神に求めるからです。愛をもって、「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐えて」絶えず祈ります。(第一コリント13:7)使徒が勧めたのは、そのような祈りです。「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。(自分たちを迫害する)王たちやすべての高官たちのためにもささげなさい。わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。」(第一テモテ2:1-2)
 
 舌を制して、人に語らず神に祈るように舌を用いるのはとても難しいことです。しかし、キリスト・イエスにおいて神を知る私たちには、不可能ではありません。そして、このことに私たちの命がかかっています。「死も生も舌の力に支配される。舌を愛する者はその実りを食らう。」(箴言18:21)人は語ったことの実りを食べながら、神に対して生きていきます。あるいは死んでいきます。大きな船も、ごく小さな舵によって操(あやつ)られます。(ヤコブ3:4)嵐の中であっても、舵(かじ)取りが良ければ、安全に進むことができます。反対に、風一つなくても、舵取りを間違えるならば、暗礁に乗り上げてしまうでしょう。
 

「絶えず祈りなさい。」

これこそ、正しい舵取りです。